立花隆『脳死』を読んだ(3)

ようやく読了。でも最後のほうはちょっと飛ばしぎみで、ついていってない部分も多々。

これはもう20年前の本ということになる。現在はどうなっているのか、調べて見る気になった。

Wikipediaの「脳死」のページ を読むと、2008年の現在でも、この20年前の本で解説されていたこととほとんど同じようなことが書いてあったが、「臓器の移植に関する法律 」というもの(最終改正は1999年12月22日)に関する記述があった。この最終改正日は『脳死』出版以降のこと。

これによると『「脳死したものの身体」は「死体」に含まれる』という規定があるらしい。

総務省法令データシステムにある「臓器の移植に関する法律」の条文ソース にあたってみた。その第6条第2項に、「脳死したもの」が以下のように定義づけられている。

2. 前項(第6条第1項)に規定する「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう。(下線hypersomnia)

つまり、日本という国は「脳幹死」だけではなく、脳全体の機能が不可逆的に停止している「全脳死」を「脳死」という立場をとっている。しかし問題は、何処の時点で「不可逆的」であるか、ということを判断するのか、というところ。それについては、以下のようになっている。

 臓器の摘出に係る第二項の判定は、これを的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師(当該判定がなされた場合に当該脳死した者の身体か ら臓器を摘出し、又は当該臓器を使用した移植術を行うこととなる医師を除く。)の一般に認められている医学的知見に基づき厚生労働省令で定めるところによ り行う判断の一致によって、行われるものとする。(下線hypersomnia)

この法令はあくまでも「臓器移植」に関するものなので、何をもってして「不可逆的機能停止」であるか判断する根拠となるものは「一般に認められている医学的知見に基づき厚生労働省令で定めるところ」ということらしい。で、それは一体どうなっているのかというと、その「厚生労働省令で定めるところ」のソースがわからず…。

脳死した身体は近い未来に心臓死に至る、脳死した身体は無理やり心臓を動かされている死体、というのが常識だったらしいが、それを覆すような症例も多々あるらしい。「脳死」というキーワードで検索してみると、いろいろと興味深いものが出てくる。

4歳のときに脳死して、人工呼吸器を取り付けて自宅療養を続け、なんと二十歳をむかえた例があるらしい。脳死後も少年の身体は成長をつづけ、二十歳のときには青年の身体になっていたそうだ。脳が死んでも人工呼吸器さえあれば体は温かいし、成長もする。それが自分の子供であったら「無理やり呼吸させられている死体」と割り切ることはできないだろうと思う。

あるいは、脳死した体が自分で動き、祈るようなしぐさをしたり、何かを掴むように腕をのばしたりする例が多数報告されている(「ラザロ徴候」とよばれる)。いまのところ、それは反射だとして説明するしかないらしいが、自分の家族がそのような動きを見せたら、反射だといわれても、まだ生きている、と思ってしまうに違いない。そのため、ラザロ徴候を家族に見せないように、最後の瞬間は家族を病室から出すことを推奨していたりするところもあるらしい。

『脳死』の最後のほうにもでてきたのだけれど、脳死から心臓死までの時間は、実はいくらでものばせるらしい。脳みそが死んでも体は健康である場合がけっこうあるらしく、そうなるとそのような死体(脳死を死として)を人工心肺で動かし続け、必要なときに必要な臓器を取り出すことのできる、臓器製造工場のような使い方だってできるのではないか、とあった。

体は温かく呼吸もしている死体(脳死者)がずらりと並んだ部屋から、必要に応じて臓器を取ってくる。これは、想像するとある種おぞましい光景ではあるけれど、たとえば、わたしの体が死後も利用可能だとして、例えば自分の孫が突如病気におかされて移植が必要になった場合、わたしの臓器や血液がその孫にとってとても必要なものになってくる可能性は高い(赤の他人より上手くマッチする可能性が高い)。自分の肉体を遺産として残す、という考え方もできるのかもしれない。

人間の死が脳みその死にある、というのは、納得ではある。20年前にこの本が書かれた時点で、技術的に「首から上だけの人間」と「首のない肉体」両方を活かし続けることは可能だったのだそうだ。しかし、首のない肉体はいくら血色がよくて体が温かくても、それはもはや人間とはいい難いと思うし、逆に、首しかなくてもきちんと意識のあるものがあれば、それは人間性がまだそこにあると判断できると思う。

臓器の死が人間の死になるのは、脳だけである。脳波特殊な臓器であって、ほかの臓器と同じように論じられてはいけない。心臓ですら人工装置で代用ができるのだし、例えば肝臓が死んでしまったら、その人の死かと云うとそう云うわけではない。

臓器移植と脳死、生と死。

考えはじめるとぐるぐるクラクラ。でも、考えなきゃいけない事なんだろうと思う。理解しないうちには論じることもできないし、まして判断することなんてできない。家族が突如脳死状態に陥らないとも限らないし、そのとき、まだ温かい家族の体を切り開いて心臓をつかみ出すことに「脳死は死だから」とわりきれるかどうか、わたしには自信がない。人工呼吸器のスイッチを切ったとたんに両腕を挙げて祈るようなしぐさをする家族を見て、『これは反射だから』と、すんなり納得できるだろうか。

この本を読んで、内的意識の存在についても考えさせられた。例えば医師に「脳死です」といわれても、たぶんそのことを思ってしまう。脳が自己融解を始めてどろどろに溶けていると云うことを科学的データで証明してもらえれば、或いは納得して、心臓でも何でももっていってくれ、と思うかもしれない。

自分が健康な身体のまま脳死状態に陥った場合、家族はどうするだろうか。そのとき、脳死と判断されたわたしに本当に内的意識はないのだろうか。自分の体から心臓をとりだされるのを、私は見つめることになるんではないだろうか。

もう一度頭を整理して読み返すべき本。最後のほうはカオス脳で読んだので、理解が足りていない。

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